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〈大挙して大学に進学した彼らが、マスプロ教育の実情に幻滅し、アイデンティティ・クライシスや生のリアリティの欠落に悩み、自傷行為や摂食障害といった先進国型の「現代的不幸」——それは飢えや戦争といった発展途上国型の「近代的不幸」とはまったく異質なものだった——に直面し始めていた〉(上p.99)
〈この時代の若者をおおっていた「閉塞感」「空虚感」「リアリティの欠如」は、それ以前の政治運動や労働運動、平和運動を支えていた、飢餓や貧困からの脱出、戦争の恐怖といったものとは、およそ異質なものだった。それは貧困や戦争といった「近代的不幸」しか知らない当時の大人たちには理解不能な、ぜいたくな悩みとしかみえない、高度成長で大衆消費社会に突入しつつあった日本社会で出現した、新種の「現代的不幸」だった。そしてこの新種の「生きづらさ」が、「あの時代」の叛乱の背景になってゆくのである〉(上p.147)
〈全共闘運動は、高度成長にたいする集団摩擦現象でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的に直面した世代がくりひろげた大規模な〈自分探し〉運動であった、ともいえるだろう〉(下p.794)
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糸井 いつの間にか、
みんなが為政者のように語る社会が
来てしまいましたね。
とくに「9.11」は
大きな影響があったと思います。
中近東にどう支援するかというような話も
為政者のように考える練習になったことでしょう。
あのときから、ずいぶん人は
情報に絡んで生きはじめたような気がする。
「ひとりの人」の役割を多くしすぎちゃって、
いまはにっちもさっちも
いかなくなっちゃってるんじゃないかな。 -
2005年ごろに「自己責任」という言葉が流行しました。当時、まずい状況に置かれていれば「自分のせいだ」と思い込んでしまう人が多かった。その後、派遣制度の問題が浮上し、2008年には秋葉原無差別殺傷事件がありました。そして「自分のせいではなくて、社会のせいではないか」という雰囲気になった。高齢者の孤独死、無縁社会、孤族(誰にも看取られることなくその生命を終えてしまう人たち)など、雇用だけにとどまらない幅広い社会問題も認知されるようになってきた。
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860 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:2001/02/28(水) 20:59
僕はいつも学校に行くためにバスに乗ってるんですけど、
そのバスは右に曲がった
そのいつも乗ってるバスで、ある日おかしな事があったんです。
だって、いつものような、おばあさんもがいるから、
最後まで行ったんです。痛いから。
それで、そこまでは別に良かったんですけど、めちゃくちゃ
大きい紙袋の紙じゃない版みたいなのがあって、
ボールみたいなのもあって、シルクハットをかぶってる人も
いっぱいいたんです。
おかしいですよね?普通の道を通ってるのに。
それでもバスはずうっと普通に進んでたんですけど、
ある道を左に曲がった所で、いきなり急ブレーキをしたんですよ。
それで、本当に急にキー---って止まったんで、
中に乗ってた人が、バランスを崩してこけそうになったんです。
僕は席に座ってたんで大丈夫だったんですけど。でも、本当におかしい事は、学校に行く直前に起こったんです。
そのバスはいつも、大きな公園の横を通って行くんですけど、
その頃、ちょうどそのいつもの道は工事してたんで、
ちょっと遠回りして、トンネルがある方の道から行ってたんです。
それで、そのトンネルのちょうど真中ぐらいまで通ったところで、
そのバスが”ガチャ”とか言いながら止まったんです。
僕はもちろんおかしいな、と思いました。
で、気づくと、バスは既に学校前のバス停に着いてました。
僕は、あれ?おかしいなぁ?とか思いながらバスを降りて、
その日も普通に学校に行きました。
そのバスに乗ってた人はもうみんな死んだんですけど。861 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 投稿日:2001/02/28(水) 21:30
>860
あなたの文章、とても恐いです。
意味が全然わかりません。
このスレで一番こわい・・・・・・・。
kowaihanashisuki「全く意味がわかりません」Posted on December 13, 2011 via Anata Omaeda
Source: ameblo.jp
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「もし、自由な民主主義体制の中で、適切な時期に、自由と法治国家擁護のために立ち上がれば、後で独裁者に対して命がけの抵抗を試みる必要など生じてこないのです。つまり自由民主主義の擁護には、法と裁判所だけでは不足で、市民的勇気も必要なのです。」(リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー)
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人間の精神は神の存在を信じるように進化し、生物学を信じるようには進化しなかった。脳が進化の途上にあった先史時代、超自然的存在を受け入れることはきわめて有利だった。
『知の挑戦』エドワード・O・ウィルソン (via enjoetoh)Posted on December 11, 2011 via EnJoeToh with 42 notes
Source: enjoetoh
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何にせよ芸術療法士と美学研究者で「芸術」に求める水準がそもそも違う気がする。問いが明確に立てられていないという気もする。例えば、ネルソン・グッドマン風に、クライアントの作品がそもそも最初から芸術作品なのではなくて、「いつ芸術になるか」を考えてみてはどうだろうか。例えば、作品は治療室では治療のための媒介だが、美術館に並べれば「芸術作品」になるのかとか、どういう文脈で、どういう力学が働いて芸術になるのかを考えてみてはどうか。ただの作品が「芸術作品」になった前後で何が変化したのかを考えてみるのもいいかもしれない。そこには作品を取り巻く記号系の変化があるはずである。
その例となっていたのが、シンポジウムの終了間際で取り上げられたアボリジニの作品である(智恵子でもいいけど)。取り上げた人は特に文脈を意識していないようだったが、アボリジニの作品を芸術作品たらしめる文脈が存在するだろう。作品自身の独特さ、スタイルもあるだろうが、ネイティブの伝統や希少性が生み出す他者性への関心とそれが生み出す市場、それを売らずには生活できない生活環境などが考えられる。まるで二十世紀前半の未開人への関心(芸術史でいえば原始芸術への関心)の延長のようだ。理性に対する非理性の前景化か。精神病者の作品が芸術化するのもこのような理性vs非理性の文脈なのだとしたら昔と大して何も変わっていないことになる。それとも何か新しい文脈が胚胎しているんだろうか。
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Posted on October 2, 2011 via 生活未遂 amnemonic with 1,571 notes
Source: amnemonic


