Now That You've Gone

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  • 何にせよ芸術療法士と美学研究者で「芸術」に求める水準がそもそも違う気がする。問いが明確に立てられていないという気もする。例えば、ネルソン・グッドマン風に、クライアントの作品がそもそも最初から芸術作品なのではなくて、「いつ芸術になるか」を考えてみてはどうだろうか。例えば、作品は治療室では治療のための媒介だが、美術館に並べれば「芸術作品」になるのかとか、どういう文脈で、どういう力学が働いて芸術になるのかを考えてみてはどうか。ただの作品が「芸術作品」になった前後で何が変化したのかを考えてみるのもいいかもしれない。そこには作品を取り巻く記号系の変化があるはずである。

     その例となっていたのが、シンポジウムの終了間際で取り上げられたアボリジニの作品である(智恵子でもいいけど)。取り上げた人は特に文脈を意識していないようだったが、アボリジニの作品を芸術作品たらしめる文脈が存在するだろう。作品自身の独特さ、スタイルもあるだろうが、ネイティブの伝統や希少性が生み出す他者性への関心とそれが生み出す市場、それを売らずには生活できない生活環境などが考えられる。まるで二十世紀前半の未開人への関心(芸術史でいえば原始芸術への関心)の延長のようだ。理性に対する非理性の前景化か。精神病者の作品が芸術化するのもこのような理性vs非理性の文脈なのだとしたら昔と大して何も変わっていないことになる。それとも何か新しい文脈が胚胎しているんだろうか。

    2011-09-28 - 菌曜日、午前三時

    Posted on October 6, 2011

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